調剤薬局の歴史

調剤薬局の歴史は浅い

病院に行くと、必ず隣にある調剤薬局。20代の人は、調剤薬局が病院の近くにあるのが当たり前という認識をしている人も多いのではないでしょうか。今では当たり前になった調剤薬局ですが、その歴史はとても浅く、30年程度しか無いのです。

大手調剤薬局の創業年を見ていればわかるのですが、大手調剤薬局のほとんどが、1980年代から始まっています。薬局自体は戦前もありましたが、調剤薬局は戦後に発展した薬局の業態なのです。

戦前の薬局

昔の薬局というのは、街の科学者であり、地域医療のフロントラインでした。薬学というのは、医薬品のみならず、身の回りにある化学物質を対象として学ぶものです。化粧品や洗剤・食品添加物から空気中の汚染物質のようなものまで幅広くカバーしています。

そのため、薬剤師は街の科学者と呼ばれ、常に薬剤師が居る薬局は、「化学」が関わっている分野のありとあらゆるものを相談する施設としての役割をしていたのです。戦前は医療機関もまだまだ少なく、国民皆保険制度も整っていなかったため、医者に診察してもらうことは、庶民にとっては大きな負担でした。

その点薬局は、いつでも気軽に行けて無料で相談に乗ってくれるので、とても頼れる存在だったのです。

戦後の制度の改正

第二次世界大戦後に、アメリカのGHQが日本にやってきて、法律や制度に対する指導を行いました。医療についてもアメリカの制度に近い医薬分業制度を導入しようとしたのです。この医薬分業制度というのは、医師が処方箋を発行し、それを元に薬局で調剤して薬を受け取るという現在では当たり前の仕組み。

明治時代から医薬分業の考え方があったのですが、全く進んでいませんでした。それが1949年にアメリカの薬剤師協会の使節が来日してからというものの、急速に医薬分業が実施されていくのです。1951年には厚生省が国会に医薬分業法を提出しました。

そして、その10年後の1961年には国民健康保険法が改正されて、国民皆保険制度が確立したのです。これによって全ての国民が医療保険に加入することになり、全ての経済層の人が平等に医療を受けることができるようになりました。これはアメリカの制度とは違い、日本独自の制度と言えるでしょう。

調剤薬局の発展

医薬分業法が成立してから、院外処方は進む気配がなかなかありませんでした。医師会は自分たちの利権が絡んでいるため、「この場合は処方箋を発行しなくてもいい」というような「例外」を多数作成し、医薬分業を有名無実のものとしようとしていたのです。

1974年に診療報酬が改定され、処方箋料が100円から500円になりました。処方箋を発行すれば5倍の収入を得ることができるという金銭的譲歩です。これを受けて儲かることを優先した医療機関が、院外処方を進めていきました。そのことから、1974年は医薬分業元年と呼ばれています。

そうして院外処方を実施する医療機関が増えたことによって生まれた薬局の業態が、調剤薬局です。経営者を目指す薬剤師にとってはとても魅力的なものでした。医療機関の近くに調剤薬局を建てれば、確実に儲かるのです。

そういったことによって、調剤薬局はどんどん増えていきました。

現在の調剤薬局

まだまだ増えている

調剤薬局元年から年々すさまじいペースで増え続けてきた調剤薬局ですが、現在でも増え続けています。医薬分業を完全に行っていないところが、まだあるのです。そういった病院がある限り、調剤薬局は増え続けていくでしょう。

ただ、最近は少し問題視されていることもあります。現在の調剤薬局というのは、病院の処方箋に著しく偏った経営をしており、典型的なコバンザメ商法となっているのです。本来調剤薬局は、地域住民が気軽に訪問して健康相談などをすることができる施設としての役割が求められていました。

現在はただ薬を処方し、受け取るだけになっています。そのため、現在は「地域住民の健康相談」を受けることができるようにと、地域医療に力を入れている薬局が多くなりました。

独自性も進んでいる

地域医療に力を入れ、調剤薬局が本来期待されていた役割へと帰結しようとしている動きが強いのですが、調剤薬局の独自性も進んでいます。ローソンの調剤薬局がその良い例ですね。コンビニと複合することによって気軽に訪れることができるようになっています。

そういった独自性と、原点回帰の両方が現在では行われているのです。